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宇陀松山城主たち
| 南北朝時代 | 秋山氏 | 阿紀神社の神職であった秋山氏が領主となり、古城山に城を築く。そのふもとに城下集落をつくる。「秋山城」 |
| 天正13年 (1585) |
伊藤義之 |
豊臣秀長が大和に入る。秋山氏退去。 伊藤義之、宇陀に入部。 |
| 天正14年 (1586) |
加藤光泰 |
加藤光泰、宇陀に入部。 |
| 天正16年 (1588) |
羽田正親 | 羽田正親、宇陀に入部。 |
| 永禄元年 (1592) |
多賀秀種 | 多賀秀種、宇陀に入部。かたばみ文の鬼瓦が出土していることから、宇陀松山城跡の「作事」を担ったと考えられる。 |
| 慶長5年 (1600) |
福島高晴 | 関ヶ原合戦後、福島高晴が宇陀に入部。「松山城」と改める。 |
| 慶長20年 (1615) |
福島氏が改易。その後、宇陀松山城が小堀遠州・中坊秀政によって破却(破城)される。 |
伊藤義之(いとうよしゆき)
城主期間:1585〜1586年 生年不明~1586年没
天正13年(1585年)、豊臣秀長が大和国に入部した際、それまでこの地を治めていた秋山氏が退去した 。
これに伴い、秀長の家臣であった伊藤掃部頭義之が秋山城(後の宇陀松山城)に入り、城主として居城することとなった 。
しかし、その翌年の天正14年(1586年)、義之は紀州での合戦において戦死する 。『多聞院日記』による。
なお、松山地区にある万法寺には、義之の弟である伊藤五郎太夫が真宗に帰依して「祐」と名乗り、法隆寺での聖徳太子のお告げに従って寺を現在地に移したという伝承があるが、その詳細は不明である 。
※伊東掃部助祐時とは没年が異なるため、別人ではないかと推測される。
加藤光泰(かとうみつやす)
城主期間:1586〜1588年 生年1537年〜 1593年没
美濃国の出身と伝えられ、当初は斎藤龍興に仕えていたが、斎藤家が没落した後は木下秀吉(の豊臣秀吉)の仲介によって織田信長に召し抱えられ、秀吉付属の武将となった 。
秀吉のもとで活躍し、山崎の戦いや、翌年の賤ヶ岳の戦いにおいて軍功を挙げた 。これらの功績により秀吉からあつい信任を得て、美濃大垣城主として4万石を領する 。
しかしその後、秀吉の怒りにふれて領地を没収される。光泰は豊臣秀長に預けられ、大和郡山城で蟄居を命じられることとなったが、この際、秋山城(宇陀松山城)を任される。前任の城主であった伊藤義之が戦死したため、その代わりとして城に入った 。光泰の宇陀での統治期間は天正14年(1586年)から1588年頃までであったが、天正15年(1587年)には赦免され、近江国佐和山城2万石を与えられて表舞台へと復帰した 。
その後、小田原征伐を経て甲斐国24万石という大封を得る。文禄の役が始まると自ら朝鮮半島へ出陣したが、文禄2年(1593年)、西平浦の陣中で病に倒れ、57歳でその生涯を閉じた 。
羽田正親(はねだまさちか)
城主期間:1588~1589年 生年不明~ 1595年没
近江国上羽田村の出身である羽田正親は、豊臣秀長の家臣としてその頭角を現した 。
軍事面では、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて桑山重晴とともに配備されるなど、初期から重要な戦局に携わっている 。
また、武勇のみならず実務能力にも長けており、和歌山城の普請(建築)では藤堂高虎や横浜一庵とともに補佐役を務め、築城術においてもその手腕を発揮した 。
天正13年(1585年)には従五位下・長門守に任ぜられ、大和国小泉城主として4万8000石を領する大名となる 。
宇陀松山城(秋山城)の城主を務めたのは、天正16年(1588年)頃のことである 。在城期間は短かかったが、交通の要衝である松山の地を守った 。
主君・秀長の死後はその甥である豊臣秀次に仕えたが、文禄4年(1595年)に起きた「秀次事件」に連座。事件の影響で追放処分となり、最後は自害という悲劇的な最期を遂げた 。
戦場や政務で活躍する一方で、茶人としての深い嗜みも持っていたと伝えられている。
多賀秀種(たがひでたね)
城主期間:1592年〜1600年 生没年:1565年 〜 1616年
宇陀松山城の近世城郭化
秀種により、宇陀松山城を近世城郭へと整備する工事が本格的に着手された可能性が高い。天守郭周辺や城郭の中枢部、さらには大手にあたる南西虎口部(雀門)からは、酢漿草(かたばみ)紋を表現する瓦がいくつか出土している。
歴代城主の中で酢漿草を家紋とするのは多賀出雲守秀種のみであるため、これらは彼が用いたものと考えられる。
生涯の歩み
多賀秀種は1565年に美濃国で堀秀重の次男として生まれ、1580年には近江国の国人である多賀常能の養嗣子となって多賀姓を名乗った。
本能寺の変後は実兄である名将・堀秀政に仕え、近江佐和山城の城代を務めるなど一族の重鎮として活動し、小牧・長久手の戦いや小田原征伐にも従軍して軍功を重ねた。
1588年には従五位下・出雲守に叙任されるが、小田原の陣中で兄・秀政が病死した後は豊臣秀長の配下となり、秀長の没後は豊臣秀吉の直臣として取り立てられた。
1592年に大和国宇陀郡へ入部すると、1595年の検地を経て同地で2万石余を領する大名となったが、1600年の関ヶ原の戦いにおいて西軍に属したことで戦後に改易処分を受け、領地を没収された。
没落後は親族である堀秀治を頼って越後国へ身を寄せたが、1610年に京都で赦免を受けると、大坂の陣を経て加賀藩主・前田利常に仕えることとなり、1616年に生涯を閉じた。
福島正晴(ふくしままさはる)
城主期間:1600年〜1615年 生没年:1573年 〜 1633年
福島高晴は、尾張国(現在の愛知県)に生まれたと考えられ、兄・福島正則と同様に、豊臣秀吉に仕えた家臣団の一員として成長したとみられる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、兄・正則が東軍として軍功を挙げたことにより、福島家は大きく加増された。
高晴もまた恩賞を受け、伊勢長島(現在の三重県桑名市)1万石から、大和宇陀3万石へと加増され、宇陀松山に入城した。
高晴の宇陀統治期において、城郭の整備が進められた。それまで「秋山城」と呼ばれていた城は、この頃に「松山城」と改名されたと考えられている。
また現在、国指定史跡となっている西口関門は、発掘調査の成果から16世紀末から17世紀初頭にかけて築造されたことが判明しており、高晴による城の整備の一環として設けられたものであると推定される。
さらに、西口関門から春日門へ至る道は城下町の大手筋にあたり、その色合いから「黒門」と称され、人々に親しまれてきた。
しかし、高晴の治世は長くは続かなかった。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の際、家中の不和や大坂方への内通の疑いをかけられ改易処分を受けた。これにより領地・地位を失い、伊勢山田において蟄居の身となった。
高晴の退去後、宇陀松山城は幕府の命によって破却されるに至った。結果として、高晴は宇陀松山城の最後の城主となったのである。



